何時だったか、灰色氏と靖国神社に行った時に、灰色氏は何を願ったか聞いてみた。
「幸せになれますように」 それが灰色氏の願いだった。
驚いた。驚いたね。
灰色氏のことだから、きっと『朝鮮半島が海に沈みますように』なんてことを
願っているのかと思っていた。
小生は灰色氏のほんの一部分しか知らないが、灰色氏を見ていて、
将来「幸せになりたい」と思っているように見えなかったからだ。
日々、マックを食って萌えアニメをみてバイオ4をする生活の何処に、
未来の幸せを追い求めている姿を認められるのだろうか?
小生には全く認められないし、灰色氏自身も「働きたくない。この先もどうにかなるだろう」なんて言っている。
自ら幸せを追い求めずして、神仏には祈る。不思議!
小生はたいそう驚きました。
小生は近年、神仏には自分以外のことを祈っている。
例えば旅行先では「この美しい自然を守ってください」といった具合だ。
無論、願ったところで叶うものでもない。というか、叶わないから
自分のことを願うのをヤメタ。
どうせ叶わないなら祈る必要もないのだが、
旅行先や初詣などでは「せっかく来たのだから」と手をあわせてしまう。
どうせ手を合わせるなら自然や全体のことでも祈っておくか…と言った塩梅である。
自分のことを神仏に願っても、基本的には叶わない。
なぜ叶わないのか…考えてみれば簡単たことだ。
例えばまともなところに就職したいとしよう。
お伊勢参りをしたら就職できるのだろうか? それよりも履歴書を送ることである。
履歴書を送らずお祈りをしていても職にはありつけまい。
では、履歴書を送っても職につけないからお伊勢さんに行くという場合はどうか。
お伊勢さんに行く前にやることがあるだろう。履歴書を工夫する,
専門の写真屋に証明写真をとってもらう,面接対策をする,等々たくさんやることはあるのだ。
逆にお伊勢さんの立場になって考えてみよう。
ぞろぞろお参りに来る中で、どうして「できることをやらずに」お参りにくる
奴に運をつけようと思うだろうか。むしろそのような者の願いを叶えること
自体が罰当たりで、お伊勢さんの信仰を弱めることになるのではないか。それよりも
やることをやって苦労している奴の願いを叶えてやろうというのが人情ならぬ神情ではなかろうか。
神がいたとしても、ただ祈るだけの奴の願いは叶わない。
神仏に自分のことを願っても叶わない。いや、神仏に自分のことを投げてしまう
奴の願いなど叶うわけがない。
神仏に祈るのは、せいぜい最後のひと押しか、自分ではどうにも
出来ないことにしておこう…と思っている。
金持ちは風水や神仏を大切にする人が多い。
何かにつけお礼参りに行ったり、高いお金を払って祈祷してもらったりする。
しかし、その結果や幸運は
誰がもたらしたのだろうか?
確かに神仏のご利益もあるのかもしれない。しかしもっと明確な物があるのではないか?
人や社会や知識に救われた部分が大きいのではないですか。
ならばまず、人や社会や知識に感謝し、お金やエネルギーを費やすべきです。
一番期待できる所、結果を残したところに投資して次に繋げる。ごく普通の事をしましょう。
健康になりたい。就職したい。資格を撮りたい。
金持ちになりたい…自分のことはまず自分に祈りましょう。自分に願いましょう。
自分の願いを叶えるために、自分が動き出しますように…と。
しかしこの『自分』という神様、なかなかどうして厄介なものです。
健康になりたいと願いジョギングしようとしても三日坊主。
勉強する筈がなぜかゲームをしている。度し難い制御不能の神様です。
他の神様に祈るより、まず『自分』という神様に何とかしてもらうことを考えましょう。
なんとか工夫して『自分』という神様に願いを叶えてもらえるようにしましょう。
そして怠惰な神様である『自分』は、そんな神様を何とかしようと祈っている『自分』が
いることを時たま思い出してあげましょう。
偉そうなことを書きましたが、これを実践できていれば小生はこんな人生を送っていないわけで……
だけど昔のように、ただひたすら絶望に浸かる神様よりはましになったかなと思います。
神様がまともになったのか、願掛けのやり方がうまくなったのか…私は後者であると考えています。
2013/01/09